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暗室の匂い

北京から帰ってきて、スーツケーツを開けると土っぽい匂いがした。現地では何も感じなかったのに、日本に帰ってくると自分がずいぶん違う匂いのところにいたんだなと思う。その匂いを嗅ぐと20年前の北京の風景をちょっと思い出した。

北京のホテルで休んでいる時、W氏の日記を読むと事務所兼暗室兼ワークショップ会場であるビルが来年取り壊しになるという話が出ていた。ちょうど20年前に学んでいた北京の大学を訪れ、そのあまりの変わりように20年という時間の変化の強大さを感じたばかりだったので、その知らせは胸に響くものがった。

ビルがなくなってしまうと考えた時、脳裏をよぎったのは「匂い」のことだった。来年にはもうW氏のあの暗室の匂いを体験できなくなってしまうのだ。あの場所で写真の基礎やプリントについて多くを教えてもらったので、今でも暗室の扉を開けて室内の匂いを嗅ぐと当時の記憶が鮮明に蘇る。保存された当時の記憶を強烈に呼び起こすことができる唯一無二の場所だ。

自分で作った暗室やレンタル暗室にも匂いはあるが、どれも同じではない。建物自体の匂い、設備、使う薬品、暗室の主の性格。空間の匂いは様々な要素によって変わる。暗室の数だけ暗室の匂いはある。それは一人の人の在り方を示すものであり、ひとつの文化みたいなものだと思う。

W氏の暗室の匂いはあのビルのあの部屋にしかない。どんなに建物や室内の写真を撮っても、ムービーで全体を写しても、録音しても、あの匂いは保存できない。あの匂いがないと記憶はパーっと蘇ってくれない。頭の中のどこか奥深くに沈んでいってしまって、二度と再生できなくなってしまいそうだ。どうして匂いを保存するツールは身近にないのだろう?と四合院の中庭で考えてしまった。

もしかしたらスーツケースの中の土っぽい匂いのように、思いがけずあの暗室を思い出す匂いにいつか出会うかもしれない。誰かの暗室が限りなくあの暗室の匂いに似ているということもあるかもしれない。でもその可能性は決して高くないだろう。とりあえず今年のうちはあの暗室の匂いをよく体験しておかなければ。
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Author: 泉 大悟 / Daigo IZUMI
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